自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2022

この記事は Syarlathotep さんの「自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2022」の 23 日め(だったはず)の記事です。当初はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』に基づいた全く別のことを書こうと思っていたのですが、だんだんとまとまりがつかなくなったのと「これ、たぶん届いてほしい人には届かないんだろうなあ」と自分の中で見切りがついてしまったので、今年は初心に帰って(趣旨に戻って?)自分のことをお話ししようと思います。ところでエーリッヒ・フロムの『愛するということ』は、私には語り切ることはできませんでしたが、一度読んでみても良い本だと思います。とはいえ古い本であることは間違いありませんので、同性愛や母性愛、父性愛についての記述は固陋な感がありますが、言いたいことは分からんでもない、という気持ちで読む必要がありますが。

今年したことあったこと

1. 正月休みに九州を車で旅した

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。

という有名な詩がありますが、私は「きままなる旅」というものが大好きです。目的地を大雑把に定めておいて、ひたすらここではないどこかに向かって車を走らせる。疲れたら車の中で眠りについて、目覚めたらまた車をどこかに向かって走らせる。地図はあっても時刻表はない、そんな旅が大好きです。でもあまりに勝手きままな旅すぎますので、誰かを誘って一緒に行くわけにはいかないのですが。そういう旅も、またいつかしてみたいですね。
昨年の正月休みはこれで北関東から本州最南端、和歌山県の潮岬まで行き、そこから那智の滝〜菰野〜彦根を 4 泊 5 日で旅しました。今年の正月休みは九州のほぼ最南端、鹿児島の番所鼻自然公園まで行き、そこから九州の東側をぐるりと回りました。開聞岳の脇から昇る初日の出がとても綺麗でした。これまで見てきた日の出の中で、いちばん絵になる日の出だったかもしれません。
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今度はどこへ行こうかな。車があるからこそ行けるどこかへ。

2. 引っ越した

今年の 7 月に直線距離で 400 m ほどの引越しをしました。
3 年前に千葉から北関東……ってぼかす必要もないですね、栃木県に引っ越したのですが、その栃木県の中でも私は住所を転々とさせてまして、今回が栃木県内で 3 つめの住所になります。過去 2 つの住まいはいずれも古い空き家だったところを借りて住んでいたのに対し、今回は団地住まいです。3DK のファミリー仕様の家にひとりで住んでいるので、まあなかなか贅沢な空間の使い方ができています。過去の家に比べると断熱がまともなのが特にいいところですね。以前の家は冬場には室内で氷点下近くまで室温が下がりましたし……。その代わりお風呂が団地サイズで狭いのが難点ですが、幸い栃木には温泉がいっぱいありますので、その気になれば気軽に広いお風呂に入りに行けます。そう考えるとむしろお風呂の狭さが温泉に行く動機づけになってる面もあるかも。

3. 古典文学読書会に参加した

今年の3 月から、月 1 回オンラインで開催される古典文学の読書会に参加し始めました。
本を読むのはわりと好きなほうだと自分でも思っているのですが、こと古典文学に関しては「とっくに読んでなきゃいけなかったのに今日まで読まずにきてしまった本」というのがいっぱいあったりします。今にして思えば古典文学は高校生の時にもっと読んでおくべきだった……と後悔したりもするのですが、そういえば高校生だった頃ってどんな本を読んでいましたっけ……一時期江國香織を読みまくっていたことは覚えているのですが。
まあとにかく、古典文学というものはある程度歳を取ってしまいますと何かいいきっかけがなければ読む機会を得られない代物になってしまうのです。今回は私が参加している森林ボランティア仲間の紹介で、そのような機会を得ることができました。以下これまでに読書会で読んだ本のリスト:

  • トルストイ『戦争と平和』『イワン・イリイチの死』『クロイツェル・ソナタ』
  • チェーホフ『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』
  • レーニン『帝国主義論』

主催の方曰く、今年度はロシア文学中心の年で、来年度からは主に中東の文学を取り上げるとのことです。中東の古典文学……はたして日本語で手に入るのはどれくらいあることやら。

4. 手話奉仕員養成講座を受講した

今年の 5 月から来年の 3 月まで、手話未経験者を対象とした手話奉仕員養成講座を受講しています。受講のきっかけは、たまたま目にした自治体の広報誌で受講者募集の案内を目にしたからというのと、今年の 7 月までのご近所さんにろう者の方がいらっしゃいまして、その方ともう少しコミュニケーションを取れるようになりたかったからでした。手話奉仕員養成講座、あちこちの自治体で開催されてますしもちろん未経験者大歓迎、というより未経験者のための講座ですし、受講に必要な費用もテキスト代(約 3000 円)くらいですので、手話を学ぶきっかけとしては良い入り口だと思います。そこから先、どこまで行けるかは自分次第ですが。

しかし最近は随分と映画やドラマで手話を目にする機会が多くなっている気がします。たぶん「コーダ/あいのうた」が端緒なのかしらん。これがいいことなのかただの消費なのかは私に判断する資格はありません。

5. 警察署長からお礼状をもらった

今年の 7 月に近所で倒れてた人を警察に引き渡しましたら、警察署長からお礼状をいただきました。

7 月のある日付も変わる頃の夜中のことでした。私がふと喉が渇きましたので外に出て近所の自販機まで歩いて出かけましたら、その道中でフェンスや壁に寄りかかりながら片足を引きずって歩く 70 代くらいの男性が私の前を歩いていました。明らかに様子がおかしい。でもその時はなにかが起こったわけではなかったので、薄情だったかもしれませんがその場はささっと通り過ぎて、自販機で何か飲み物を買いまして、そのままその男性がこちらに歩いてくるのを待ちました。そしたらその男性、そのまま私の前を通り過ぎて、近所の駐輪場へと入っていき、そこでガシャン! しまったと思って駐輪場へと駆けつけましたら、さっきの男性が駐輪場内で自転車を数台巻き添えにして倒れてました。

大丈夫ですか? 肩をかしたら立てますか? お名前は? 住所は? お怪我は? 十中八九認知症の徘徊でしょう、と思っていたのですが思いのほか返事は明瞭でした。でもよく見たら頭から血を流してましたので近くの交番から警察に通報。体感で 30 分ほど聞き取りに応じまして、その場を後にしました。

そしたら翌朝のことです。誰かが呼んでいるような声が聞こえた気がして目を覚ましましたら、玄関前にパトカーと警察官が立ってましてまずびっくりしました。いったいどうかしましたでしょうか? と尋ねましたら、あのあと昨日の男性が無事に家族に引き渡されて家に帰ったことの報告と、通報してくださりありがとうございました、というお礼の言葉をいただきました。どうも本当は電話でお伝えするつもりだったのが、その時ちょうど au で障害が出てて電話が繋がらなかったので、わざわざうちまで来てくれたとのことでした。当然のことですがそのあとご近所さんからいったい何があったのかと質問を受けることとなりました。そりゃパトカーがうちの前に停まってたらいやがおうでもそうなります。

それから数日経過したある日のこと。私が仕事で山の中にいましたら、珍しいことに電話がかかってきました。なにが珍しいのかって、私が仕事で山の中にいるときはだいたい圏外で着信不能な状態であることが多いからです。しかも見知らぬ番号で。おそるおそる電話に出てみましたら警察からでした。うちの旧宅の向かいにある焼きそば屋さんの店主も言ってましたが、警察からの電話って無駄に身構えてしまうものですね。焼きそば屋さんの場合は出前の注文なのですが。電話の内容は「先日通報してくださった男性の件ですが」「はあ」「署長がぜひお礼状を出したいということです」「はい?」

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その結果届いたのがこの手紙でした。これを見せたら 1 回くらい交通違反が免じされたりしないかなあ(しません)。

6. Kein Titel Nr. 1

まさかこんな世の中になるとは思っていなかった。

今年 7 月に発生した安倍元首相射殺事件以来、宗教 2 世の問題がネットでもテレビや新聞でも大きく取り上げられるようになった。私もエホバの証人の宗教 2 世の端くれとして、いろいろと思うところがあります。

2022 年 10 月に 「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~ という漫画が(紆余曲折を経て)発売されました。興味があるかたは読んでみてください。この本の第 1 話に出てくるエピソードは、私もだいたい同じようなことを経験してきました。Twitter ではクリスマスにまつわる新規エピソードが試し読みできますね。 私自身はあまりフラットな気持ちで読むことはできないのですが、先日私の同僚にこの話を読ませたところ、シンプルに「やべぇ」と言ってましたので、きっと世間の目線からは充分やばい世界なのだと思います。

ただ……私自身は正直、信者として私と弟とを育てた母に対しては極めて複雑な感情を持っているのですが、私が関係していた宗教コミュニティに対しては、どちらかといえば居心地が良かった、という感想を今も抱いています。私は信者にはならなかったのですがコロナ前まではちょこちょこと顔を出していましたし、その中で私は「集会後に子どもたちと一緒に遊んだり話を聞いたりする人」という居場所を確保していたので、私も参加することで「必要とされるのが嬉しい」という気持ちを得ることができていましたし。先日私と一緒に遊んだりしていた子どものひとりが、私に会いたい、と言っていたと弟経由で聞きました。そのようにして思い出してくれる人がいるということが(子供にとっての数年は大人のそれとは桁違いに長いのにも関わらず)、とてもありがたい、とも思いました。あと子どもの頃に日本以外のエホバの証人のコミュニティで過ごすことができた、というのも大きかったかもしれません。私がいた国のエホバの証人のコミュニティは日本に比べれば相当緩かった……というよりきっと日本がガチガチすぎたようでしたし。もしずっと日本にいたのならそれこそとっくに発狂していたかも。

とはいえ子どもに対する虐待同然の体罰や、子どもの治療における輸血禁止の教えなどは、私としては今も昔も納得しかねる教えではあります。前者については私の周囲では 2 世が結婚して子供を持つようになった頃からだいぶ沈静化した印象がありますが。まあ今ニュース等に出てくる 2 世の方々はまさに体罰全盛期に子ども時代を過ごしてきた人たちが多いでしょうから、そこに対する恨みつらみも深くなり結果的に記事等で取り上げられる機会も多くなります。ある意味 20 世紀に「撒いたものを刈り取る(ガラテア 6:7)」状態になっているわけです。さすがに日本のエホバの証人の広報担当者が毎日新聞の取材に対し「体罰をしていた親がいたとすれば残念なことだ。教えを強制することもしていない」 とコメントしていたことには唖然としました。いや、エホバの証人の理屈としては「強制していない」ということもできなくはない、というのは私はわかるのですよ。彼らの教えは血と淫行と偶像崇拝以外は「それをしたらペナルティはあるけど、それをするかどうかは君次第だ」という implicit なメッセージの積み重ねでできてますので。でもそれをもって外部向けに「強制していない」と言ってしまうのは……怒りというよりは、そのセンスの劣化に失望している、と言ったほうが正しいかも。

でもその一方で……私は「じゃあこの世とエホバの証人のコミュニティと、どっちのほうがいいと思う?」と今聞かれましたら……きっとたぶん私は今でも、「エホバの証人のコミュニティのほうがいいと思う」と答えると思います。この世界にどっぷりと浸かってしまうのは不幸せなことですが、あちらの世界にどっぷりと浸かれるのならそれはきっと幸せなことだと思いますし。私が今ここにいるのは、ただ単に私がその世界にどっぷりと浸かれなかっただけのことです。なので 2 世の人たちからの非難ならまだしも、この世界の人たちが軽々しくエホバの証人のことを非難しているのを見ると、「なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか(マタイ 7:3)」と思わず言いたくなりもします。

あ、宗教 2 世についての映画ですと、『星の子』はおすすめです。マストウォッチ。

7. Kein Titel Nr. 2

私には親友と呼べる人がひとりいる。私にとってその人は、誰よりも大切なかけがえのない存在です。生きているうちに出会えて良かった、というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、本気でそう思っています。願わくば私も親友にとって、そのような存在であり続けることができますように。

私の親友は時々泣く。数年前に自ら命を絶った親友の弟のことを思って。「私にはできることがもっとあったはずなのに」「その中には、きっと彼が死なずにいられた道があったはずなのに」私にできるのはただそれをできるだけ近くで黙って聞くことだけです。

昨年私の別の友人が自ら命を絶とうとした。幸いにしてその人は今も生きてくれています。その時私は死んでほしくない、ということをその友人になんとか伝えようとしたのですが、どんなに言葉にしても 1/100 も伝わっている気がしなくて、自分の無力さに絶望しました。今でも私は自分がなにかできていたのかわからないでいます。

私の親友の弟と私の友人、ふたりの死と生を分かったのはなんだったのだろうか。私の友人のほうは死を思いとどまらせるなにかが適切なタイミングで与えられて、私の親友の弟にはそれが与えられなかった。いや、手は差し伸べられていた。でもそれに気づくことができなかった。届かなかった。それが私の親友を慟哭させている。すべてはタイミングなのだろうか。そんなことは口が裂けても言えない。

8. Kein Titel Nr. 3~6

アニメを見る機会が減って長いこと経ちますが、昨年末にはヴァイオレット・エヴァーガーデンを、今年末には輪るピングドラムを見ました。どちらも方向性は異なるものの「愛してる」が鍵となるアニメです。これらの作品を 10 代や 20 代のうちに見ることができた人は幸運だと私は思います。その人たちは知らず知らずのうちに愛とは何であるか、ということについて触れることができますので。きっとその意味はその人が本当の意味で人を愛せるようになったときに理解できるようになることでしょう。

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人は居場所がないと生きていけないし、誰かの居場所になれるように生きている。
私が所属しているボランティア団体のメンバーが登壇したとある講演会の感想欄に、私はそう書きました。私は鈍感だったのでつい最近になるまで理解できていませんでしたが、最近は居場所が持つ力というものをよく感じます。私はここにいてもいいんだ、と自分以外の他者に承認される時間と空間。そんな時空間を幸せに満ちたものとして維持し作り上げていくこともまた愛の表れですし、大人が子供に対してできる責任の取り方なのかも、と思います。冒頭の感想、今ならきっとこう書きます。人は愛されないと生きていけないし、愛することができるようになるために生きている。と。

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知らない人はまるで知らないことですが、すでに私の知っている何人もの人たちが歌舞伎町等で未成年の女性たちが性売買に巻き込まれないように居場所作りをしている Colabo というボランティア団体に対する誹謗中傷側の主張をリツイートしたり「一見中立そうに見えて実質的に誹謗中傷側に肩入れしている」ツイートをしたりしていて、こりゃまずいな底が抜けている、と内心嘆いています。いや、嘆いているというのは半分正しくなくて、より正確には「この人たちならこういう誹謗中傷をデバッグ不十分な公正感覚でまともな主張と同様に取り合って誹謗中傷に加担するんだろうなあ」と薄々思ってたら本当にその通りになって、悲しい気持ちになっています。彼ら誹謗中傷側の主張を無批判にリツイートしたり「中立」そうなコメントをしている私の知り合いへ。今時のインターネットはすべてをコンテンツとして押し流していきますが、一度立ち止まって自分がいったいなんの片棒を担いでいるかをよくよく考えてみてください。私はあなたたちが基本的には好奇心旺盛な善良な人であることは承知していますので、どうかそれと同時に好奇心の安易な発露がメタメッセージとして何を発露させるかまでは考えを及ぼしてくださいませ。

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年末にもう 1 本アニメを見ていたことを思い出しました。今更ですが秒速 5 センチメートルを初めて見ました。私の中では「まだ見てないけどインターネットではことあるごとに話題に出てきて知った気になっている映画」という扱いだったのですが、今回初めて見てみて「え、こんな映画だったの」と少々びっくりしました。もう古典に近い作品ですのでネタバレとか関係なしに話させてください。

私がインターネット等で見聞きして知った気になっていたこの作品は「主人公は子供の頃に仲良くしていたものの引っ越しで疎遠になってしまった初恋の人のことを大人になってもずっと引きずっている。でも初恋相手のほうは全然知らない人と結婚していて街で偶然すれ違っても出会えない、という鬱エンドなアニメ」というものだったのですが……今回見てみて思ったのは、これ大まかに理解は間違ってはいなかったけど、最後は鬱エンドじゃなくてむしろ初恋に象徴的に区切りをつけることができて前に進めるようになったという前向きなエンディングじゃないの? ということと、鬱エンドっていうならモノローグでさらりと流された、この主人公と付き合った何人もの人たちのほうが主人公被害者の会を結成できるくらいに鬱だったのでは? ということでした。特に最後にメールで別れ話を送ってきた人なんか、字面通りに主張を捉えるならば、主人公とは 3 年付き合って 1000 回以上メールをやり取りしてきたけど心は 1 センチくらいしか近づかなかった、とのことですが、私は「3 年付き合って心が 1 センチくらいしか近づけない人と 3 年間も付き合えて、しかも今でもその人のことが好き」というこの人の精神状態がどうなっちゃってるんだろうかと心配になりました。

こんな感じの感想をこの映画を公開時に渋谷まで見に行ったという弟に唐突に送りつけましたら、「そうなぁ、鬱エンドというにはマイルドな気はするかな。余韻を味わう映画だとは思う。」という返事が返ってきました。余韻を味わう、ですか……捉え方は違うでしょうがビターな余韻の残る映画でした。

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以上で大遅刻したこの記事はおしまいです。どうかみなさん良いお年を。

あなたに見えない私の昔のこと

この記事は 自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2021 の 24 日目の記事です。

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ある日の午後のこと。あなたはおうちで本を読んだり、テレビを見たり、ゲームで遊んだり、お昼寝をしたりしてのんびりと過ごしていました……と仮定しましょう。その時突然、玄関の呼び鈴が鳴りました。いったい誰だろう……? と不思議に思いながら、あるいは、またあれか……とため息をつきながら、インターホンのモニタを覗いてみましたら、そこにはわりと身なりの整った 2 人組が立っています。もしかしたらそれは、大人と子供の組合せだったかもしれません。そして子供が口を開きました。

「こんにちは。今日はこの町のみなさんに、聖書からのメッセージをお届けに伺いました」

みなさんの中にはこのような形で、招かれざる訪問客が家にやってきた経験をしたことがある方もいらっしゃることでしょう。私はかつて、この子供のほうの招かれざる訪問客でした。

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私はとある新興宗教のいわゆる「2 世」として育ちました。新興……と呼ぶにはいささか苔むした感がありますが(今となっては本家のアメリカのみならず日本でも、2 世を通り越して 3 世の子供たちが育って組織を支えつつあることですし)、それでも一般的には新興宗教のひとつだとみなされています。

家族の中で一番最初にその宗教と関わりを持ったのは、私の母でした。のちに母から聞いたところによると、当時の母は数年前の父との結婚を機にそれまで住み慣れた町を離れ、それまで縁もゆかりもなかったとある首都圏のアパートにて、2 歳になる私と、生まれたばかりの弟とをほぼワンオペで育てていました。当時の父はサラリーマンとして都内の会社に勤めていましたので、朝は私が起きるよりも早く家を出て、夜は私が寝るよりも遅くに帰ってくる、という生活でした。なので子供の頃の私にとって、父は「休みの日にゴルフに出かけるか、お昼ごろまでベッドで寝ている人」以上の印象がありません。
(父の名誉のために付記すると、父は時々私たち家族を遊園地などに連れて行ってくれたり、どこかに食事に連れて行ったりしてくれてました。私の記憶の中にも、たしかにそのことは残っています。ですが私の印象としては、家庭の中において父の存在は希薄でした)

何年か前の記事にも書きましたが、私の母はそのような環境で育児ノイローゼにかかり、しばらくの間近所の人たちと誰とも交流を持たず、私と 2 人きりで家に閉じこもっていたようです。そんな日々を過ごした母にとって、定期的に家を訪ねてくれては真摯に話を聞いてくれて、悩める母に(聖書からの)アドバイスをくれる人生の先輩たちが我が家のドアをノックしてくれてつながりを持てたことは、きっと救いになったことでしょう。そしてその人生の先輩たちが伝えた教えは、私の母に「私は真理を見い出した!」と確信させるのに充分な力を持っていました。父の強固な反対もありましたが、私の母は私が 7 歳の時に正式にその宗教に入信しました。そして私と私の弟は、母の子供として、その宗教の教えに沿った育てられ方で育てられることになりました。これまたのちに母から聞いたところによると、この時私の父は母に「俺はもう子育てには一切口を出さない。その代わり、それで子供たちの人生が台無しになったらお前の責任だからな」と言ったそうです。

ところで私がその宗教に関して抱いている最古の記憶は、たぶん私が 4 歳の頃だったかと思いますが、私の母と母の司会者(いわゆる指導役)の姉妹(この宗教では、入信済の仲間のことをお互いに兄弟姉妹と呼び合います)とが私の家で「子供を懲らしめるのにはどの鞭が一番効果的か」を話し合っている場面でした。今はどういうわけだかだいぶ下火になったようですが、私が子供の頃にはその宗教では、子供を懲らしめるのに鞭を積極的に用いることが推奨されていました。むしろ「鞭棒を控える者はその子を憎んでいる(Pr. 13:24)」とさえ言われていました。私も弟も、一体何度母にお尻を鞭で叩かれたのか……数えるときりがありません。鞭が嫌で暴れる私を制圧するため、首を絞められながら鞭打たれたこともありました。「鞭打たれて泣くのは反抗的な証拠なので、泣いたら鞭の回数を増やす」ということもありました。

……ここまで書いて、なんだかその宗教の名前をぼやかして書くのが大変になってきました。その宗教は内部では英語名のアクロニムで JW と呼ばれてたりしますので、以降は JW と表記します。

私の母は私と私の弟を模範的な JW として育てることに腐心しました。それが神から子供たちをあずかった親の務めだ、と考えていたようです。クリスマスやお正月、鯉のぼりや七夕などは邪教の教えですので、うちでは祝われたことはありませんでした。誕生日も NG でした。なので私は今でも、自分の誕生日におめでとう、と言われるのことに罪悪感を覚えます。他の人たちに対しておめでとう、ということには抵抗はないのですが。

JW の教義の中核には終末論があります。終わりの日には悪魔に従う悪人は滅び去り、神に従う善人は楽園に行く。そしてその終わりの日は近い、という教えです。今でこそこの終わりの日は「その日は近いけれどもいつ来るかはわからない」というのが JW 内でのコンセンサスとなっていますが、私が子供の頃は「この日までに来る」といった感じの非公式な話が割とカジュアルになされていたような気がします。私の母は私が 10 歳になるかならないかくらいの頃まで、私に「あなたが 13 歳になる前にこの世は終わる」と言っていました。私はそれを聞いて、是非ともそうであってほしい、と思いました。もし仮に私が神の目に良いと選ばれて楽園に行くならそれはそれで仕方ないし、もし仮に悪魔と一緒に滅ぼされるのならば、私は大人になる前に神様が殺してくださるのですから。13 歳までに世界が終わる、という母の言葉は、小学生の頃の私にとっては、本当にそうであってほしい、という願望となりました。なので私は子供の頃に将来の夢、というものを抱いたことがありませんでしたし、つい最近になるまでこの将来の夢、という概念に対するネイティブな感覚が養われていなかった気もします。

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まだまだ話したいことはいっぱいあるのですが、私にとって昔のことを思い出す、というのは、古傷や臓腑を自ら抉る感覚に似ています。疲れたので今日はここまでにさせてください。ここまで読んでくださってありがとうございました。何か聞きたいことや質問がありましたら、できるだけ誠実に答えます。

1/1/2020 10:00 AM 頃

正月早々実家に帰省した。

最寄りの駅から実家までは、歩いて 10 分ほど。途中、かつてクラスメイトだった男の子の家の前を通ってみたら、なんと庭に彼がいた。

奥さんらしき女の人と、娘さんらしき女の子と庭で一緒に遊ぶ男の人の後ろ姿。十数年ぶりに見た彼は、あの頃と変わらず眼鏡をかけていて、あの頃よりずっと背も高くなり、すっかりお父さんの雰囲気を纏っていた。

一声かけてみようかな、と一瞬考えたのだけど、やっぱりやめにすることにした。彼がこの町で生きている、ということがわかっただけで私は満足だったし、なにより両親と一緒に遊んでいる、彼の娘の邪魔をしたくなかった。

さよなら、私のかつてのクラスメイト。
私も彼も、今はそれぞれの未来に生きている。

タイトル未定、あるいは去年の記事とはなんの関連もあるはずもないとあるお話

この記事は @Syarlathotep 様主催の自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 9 日目の記事です。


E・piph・a・ny /ɪpɪ́f(ə)ni/
名(複-nies)[キリスト教]
1. [the ~]顕現日(1 月 6 日); 神の顕現, 現れ. 2. C[e-] 直覚的な悟り. 3. C[e-] エピファニー(物事や人物の本質が露呈する瞬間を象徴的に表した文学作品).

− ウィズダム英和辞典 第 2 版 より引用


なにかのきっかけで、気づいてしまうことがある。悟ってしまうことがある。

おとなは、だれも、はじめは子どもだったことを
(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいないことを)
お砂糖とスパイスとすてきなものぜんぶでできた女の子は、大航海時代以前にはたいへん珍重されていたに違いないことを
寂しそうに笑った顔が、ジェームス=ディーンによく似ていたことを
アシカとオットセイの違いは 50 円だということを
自分の人生は終わりを迎えたことを
義なるものの上にも、不義なるものの上にも、静かに夜が来ることを
社会的ダーウィニズムに抵抗するには教養の力が必要だということを
言葉は思うよりも暴れてしまうことを
言葉は思うよりも溢れてしまうことを
この世には自分には思いもよらぬつらく悲しいことがいくつもあるってことを
自分にはなにひとつそれらが見えていなかったことを。

思えば、かつての私は虚空でした。
世界を「冷静に」分析した気になって
最適化の名のもとに人間の感情を問題の解決における非効率的な要素とみなし
感情移入や共感を精神汚染といいかえて
現実をより端的に、露悪的かつグロテスクな形で提示することを誠実とし
人の気持ちなど完全にわかるはずもないのだからそれを考慮しようとすること自体を不誠実とし
そのくせ同じ天秤が自分に返ってきたら不機嫌になり
いや、その百分の一が返ってきただけでも不機嫌になり
自尊心の低さをプライドの高さで鎧して
たとえその言の葉が誰かの心と腎とを引き裂こうとも、魂を深く傷つけようとも

「私は事実を述べたまで。どう受け取るかはその人の自由」
「私が言ってもいないことを勝手に読み取って傷ついたり怒ったりするのは感情のバグだし時間の無駄だからやめたほうがいいですよ」
「それで傷つくのはその人が弱いから。たとえ今私がその弱さに気を遣ったところで、そう遠くないうちにこの人の心は他の誰かの手により殺されることでしょう」

と本気で思っていた「わたし」、あるいは虚空のあなた。
そんなあなたの視点からは、今の私は大変滑稽に映っていることでしょう。

泥濘に塗れ、霊において呻き、
病める魂に少しでも近づかんと、
同じ気持ちを分けあうことができないとしても
少しでも、あと一歩だけでもわかろうとして
その人が何を見てきたのか、何を耳にしたのか、
何に触れたのか、その時何を感じたのか、
自ら闇の中に飛び込んでは、心を散り散りにかき乱しています
人間の心理に関してただの素人以上になにもわからない私が、
人の心に触れるには、こうするより他に手が思いつかないのです。
こうでもしないと、またあなたが顔をのぞかせてしまうのです。

あなたは愛を持たなかった
あなたは真理を持たなかった
あなたは善意の秤を持たなかった
他人の感情のくすしさを理解できなかったあなたは
自分の感情の必要性から目を背け
充たされざる思いを抱えながら
目を閉じ、耳を塞ぎ、この世界にひとりでいることを自立と呼んだ
世界はひとりで生きていくには広すぎるのに。

あなたは自分の目の前にいる人に目を向けたか
あなたは自分の目の前にいる人が夜毎に泣いていたことに目を留めたか
あなたは自分の目の前にいる人が、ここに来るまでに何を失ってきたかに気づいたか
あなたは自分の目の前にいる人が、虚空に何かを与えてくれたのか気づいたか
あなたは生まれてくる前に死んでいく者に対し、ただ涙を流し祈るほかにできることが何もないことに気づいたか
あなたは自分が虚空であったことを悟ったか
あなたは自分が死に至る病に罹っていたことを悟ったか
あなたは自分の罪に気づいたか。

気づいてしまったのなら、戻れない。
Ὕπαγε ὀπίσω μου, Σατανᾶ.

はじめに言葉があった。
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。
神さま、神さま
私はどこまでも愚かですから、
貴方の深い慈悲と智慧とを理解できません
世界はこんなにも広いのに
御手はあまりにも遠く、
私の腕はあなたに届きそうもありません

(未完)

男の人になりたくなかった男の子の話 第 1 部

この記事は@Syarlathotep 様が主催の自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 2 日目の記事です。この記事は全 2 部構成の第 1 部で、第 2 部で書くつもりのいちばん語りたいことを伝えるために前提となるお話を共有するために書かれた記事、という位置付けです。
なお、はじめに述べておくのが誠実だと思ったのでここで書いておきますが、このお話の第 2 部は不特定多数の人たちがオンラインで閲覧する環境に投下されることは金輪際ないでしょう。2018 年 11 月末時点では、第 2 部の核心部となるエピソードのひとつを当事者以外で共有しているのはひとりだけです。

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私がまだ 10 進法で 1 桁台の年齢の男の子だったときのこと。

私は男の人になりたくなかった。
男の子であることには不満はなかった。でも男の人にはなりたくなかった。

母によると、幼いころの私はなかなか言葉を話さずに周囲を(特に母を)やきもきさせたのだそうだけど、いったん言葉を話し出したあとは「女言葉で日本語を喋っていた」そうだ。どうも私が幼かったころの一時期、私の母は育児ノイローゼにかかっていて日中は私とふたりで家に引きこもっていたらしい。母の推理によれば、その時の私は言語の獲得手段をもっぱら母に頼らざるを得なかったため、母が私に語りかけるしかたで言葉を話すようになった、ということだ。

「たとえばどんな言葉を使っていたの?」
「全体的にそうだったんだけど、わかりやすいとこだと語尾に〜だわ、〜なの、〜かしら、とかつけてたわね」

前ふたつはともかく、最後のひとつつは誰でも使う語尾じゃないかしらん。『ドラえもん』でものび太くんが使っていたし、夏目漱石の小説でも登場人物の男の人が衒いなく使っていたし、たぶんその影響で今の私もなにげなく使っているし。

話を積極的に横道に逸らせていこう。当時の私はさすがにそうではなかったのだろうけど、今の私の語彙や話し方は会話からよりも読書から獲得した割合が間違いなく多い。20 歳の時、大学の先生に「君は書き言葉で話すんだね」という評価をいただいたことかあった。当時の私は褒められたもんだと思いこんで、素直に「ありがとうございます」と述べたのだけど、あの時先生は私に「もっと自然に話しなさい」と言いたかったのだ、ということにあとで気がついた。最近はできるだけ「自然に」話ができるように頑張っているつもりなのだけど、先日も友人の結婚式の場で新郎の母親に「失礼ですが変わった話し方をされるのですね」とご指摘をいただいてしまったので……まだまだ努力が必要みたいです(単に挙動が不審だったという可能性もある)。

話を少し戻そう。子供の頃に私が育った環境では父親が論理的には存在していたのだけれども、精神的には存在してないも同然だった。なので私は大事なことはみんな母から学んだ。ご飯の食べかた、着替えかた、掃除のしかた、買い物のしかた、母に鞭棒代わりの棒でお尻を叩かれる時にできるだけ痛みを低減するための身のこなしかた、家に誰かを招いた時のパーティの開きかた、この世のありさまのこと、神様のこと、生きるということ、そして男の人と女の人のことを。

私の母は、子供の頃の私に男の人の恐ろしさについてよく話した。話した、というより、話してくれた、というか、話してくださった、みたいな。母の言うところによると、男の人というのはたとえどんなに優しくみえる人でも、女の人と一緒にいると女の人を傷つけてしまう生き物だ、たとえばこんな話を聞いた……と言ってはいったいどこから仕入れてきたのか、男の人が女の人をいろんなしかたで傷つけた、というさまざまな事例を事あるごとに私に語るのだった。

もちろん当時の私だって、それらの話の意図するところは我が子にそういう男の人になってもらいたくなかった、という親心からくるものだということはわかっていた。そのうえでその話は私にとって、母の意図しないところで、当時すでに芽生えていた男の人になることへの恐怖感、というか嫌悪感、を強化するのに役に立ってくれた。

こういう風に筆を進めているうちにひとつ思い出したエピソードがある。あれは私が 11 歳の時だったと思う。私の家に母の友人がふたり、それぞれ小学生の娘をひとりずつ連れて遊びにきたことがあった。その場にいた男は私と私の弟だけで、はじめのうちは子供は子供同士で遊んで、大人は大人同士でおしゃべりに興じていた。

宴もたけなわになり子供達は私以外全員眠ってしまった夜 10 時ごろ、私は母の友人のひとりに呼び出されて大人たちがいる食卓へと向かった。

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ほんとうはこのあとにこの話の続きと、そして私が思春期を迎えたころの話を加えるつもりだったのですが(むしろそれが第 1 部の本題でした)、アドベントカレンダの締切がもうとっくに過ぎてるので第 1 部はここまでとします。よってこの話ははじめに全 2 部と言いましたが、第 1 部の後編が第 2 部に、そして本来第 2 部だったお話が第 3 部にスライドして全 3 部となります。第 2 部はいつかインターネットのどこかで公開されるかもしれません。どうかよしなに。

そして今回のアドベントカレンダの主催者の @Syarlathotep 様、遅刻ごめんなさい。12/2 の 35 時に投稿したということでどうかひとつご勘弁をお願いします……。